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夔州
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住約二年。這時他年老多病,患有肺病、風濕、糖尿病及瘧疾。他越來越思憶故國家鄉,思念親朋故友,關心窮苦百姓,憂慮國家前途。其間,杜甫抒情寫懷,詠古諷今,感慨激揚,不由自己,所作詩篇,約佔今存作品總數三分之一。大曆元年(七六六),他做了一篇自傳性的敘事詩─〈壯遊〉,從幼年學詩起,歷敘漫遊齊、趙,洛陽失第,長安十年,經安史之亂到滯留巴蜀的生活。當時杜甫五十五歲。此時安史之亂雖已結束,但吐蕃、回紇卻乘虛而入,藩鎮擁兵割據,戰亂時起,國家仍是動蕩不安。而這時杜甫生活困苦,既擔憂時局,又深知自己已無力匡扶國運。於是便又在滯留夔州期間...
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日本史
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財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に...
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一夢南柯
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棨戶12>,森然深邃。生下車省風俗,療病苦,政事委以周、田13>,郡中大理。自守郡二十載,風化廣被,百姓歌謠,建功德碑,立生祠宇。王甚重之,賜食邑,錫爵位14>,居臺輔15>。周、田皆以政治著聞,遞遷大位。生有五男二女。男以門蔭16>授官,女亦娉於王族,榮耀顯赫,一時之盛,代莫比之。……是月,司憲周弁疽發背,卒。生妻公主遘疾,旬日17>又薨18>。生因請罷郡,護喪赴國。王許之。便以司農田子華行南柯太守事。……生自恃守郡多年,曾無敗政,流言怨悖,鬱鬱不樂。王亦知之,因命生曰:「姻親二十餘年,不幸小女夭枉,不得與君子偕老,良用痛傷。」夫人因留孫自鞠育19>之。又謂生曰:「卿離家多時,可暫歸本里,一...
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麥穗兩歧
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一麥生出雙穗。為豐年的徵兆。語出《後漢書.卷三一.張堪傳》:「百姓歌曰:『桑無附枝,麥穗兩歧。張君為政,樂不可支。』」後比喻相像的兩事物。《京本通俗小說.碾玉觀音》:「麥穗兩歧,農人難辨。」也作「麥秀兩歧」。
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狼吞虎噬
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如狼虎大口吞嚼。比喻人極為貪婪、殘忍。元.無名氏《鳴鳳記》第六齣:「你狼吞虎噬傷殘了萬民百姓,害得那有功臣百事無成。」《花月痕》第五○回:「慢慢的采風問俗,去害馬以安馴良,泯雀角鼠牙之釁,絕狼吞虎噬之端,不驚不擾,民得寬然,各盡地力。」
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平民
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2.平治百姓。《左傳.成公二年》:「禮以行義,義以生利,利以平民,政之大節也。」
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良莠不分
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此處所列為「良莠不齊」之典源,提供參考。 ※清.紀昀《閱微草堂筆記.卷一○.如是我聞四》張鷟《朝野僉載》稱唐初已來,百姓多事狐神,當時諺曰:『無狐魅,不成村。』……其源流始末,則劉師退先生所述為詳。蓋舊滄州南一學究與狐友,師退因介學究與相見,軀幹短小,貌如五六十人。衣冠不古不時,乃類道士。拜揖亦安詳謙謹,寒溫畢,問枉顧意,師退曰:「世與貴族相接者,傳聞異詞,其間頗有所未明。聞君豁達,不自諱,故請袪所惑。狐笑曰:「天生萬物,各命以名,狐名狐,正如人名人耳;呼狐為狐,正如呼人為人耳,何諱1>之有?至我輩之中,好醜不一,亦如人類之內,良莠不齊。人不諱人之惡,狐何諱狐之惡乎?第言無隱。」 〔注解〕
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痛飲黃龍
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得其實。盡磁、相、開德、澤、潞、晉、絳、汾、隰之境,皆期日興兵,與官軍會。其所揭旗以「岳」為號,父老百姓爭挽車牽牛,載糗糧以饋義軍,頂盆焚香迎候者,充滿道路。自燕1>以南,金2>號令不行,兀朮3>欲簽軍以抗飛4>,河北無一人從者,乃嘆曰:「自我起北方以來,未有如今日之挫衄5>。」金帥烏陵思謀素號桀黠6>,亦不能制其下,但諭7>之曰:「毋輕動,俟岳家軍來即降。」金統制王鎮、統領崔慶、將官李覬、崔虎、華旺等皆率所部降,以至禁衛龍虎大王下忔查千戶高勇之屬,皆密受飛旗牓8>,自北方來降。金將軍韓常欲以五萬眾內附。飛大喜,語其下曰:「直抵黃龍府9>,與諸君痛飲爾!」 〔注解〕
(1) 燕:燕京,宋時為...
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請命
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2.代人請求保全其性命。《書經.湯誥》:「以與爾有眾請命。」《文明小史》第三八回:「兄弟是為百姓請命的意思,還望老同年大發慈悲。」
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日本歷史
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財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に...
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貓頭鷹博士